デュアルトラックプロセスとは、イグジットにおいてM&AとIPOを同時進行させる手法です。
IPO価格をM&Aの下限評価値にスライドすることで、企業は売却時のバリュエーションをより一層アップできます。
デュアルトラックプロセスを選択すれば、M&A交渉もスタートアップ優位で進めることが可能です。
本記事では、デュアルトラックプロセスの概要やIPO・M&Aのメリット・デメリット、さらには日本におけるM&Aの成功事例を紹介します。
このページの目次
デュアルトラックプロセス(Dual Track Process)は、エグジットにおいて「IPO」「M&A」の2つの進路(track)を併走する手法です。
日本ではまだなじみの薄い手法ですが、スタートアップのイグジットのほぼ9割がM&Aといわれるアメリカでは、すでに当たり前の手法として浸透しています。
デュアルトラックプロセスのメリットは、IPOの評価値をM&Aの下限値として提示できる点です。
買い手候補との交渉をスタートアップ有利に進めやすく、M&A一択のケースよりも高値でバイアウトできる可能性が高くなります。
通常アジャイルというときは、仕様変更を前提に、すり合わせを行いながら開発を進めていく手法を指します。
デュアルトラックアジャイルは、このアジャイルを2つのルートで併走する手法です。
開発工程が複雑な場合、単発アジャイルでもムダが出るケースが少なくありません。
デュアルトラックアジャイルは、単発アジャイルの併走により開発の精度向上・効率アップを期待するときに使われます。
デュアルトラックプロセスと言葉は似ているものの、全くの別物です。
デュアルトラックプロセスの1トラックを担うのがIPOです。日本では定番のイグジット手法ですが、どのようなメリットやデメリットがあるのでしょうか?
具体的に見ていきましょう。
IPOを行えば、株式市場からの資金調達が可能です。
出資者の増加によって順調に資金を増やせれば、企業経営にも余裕が出ます。
IPOによって知名度が向上すれば、ブランド力も高まります。
優秀な社員を獲得しやすいのはもちろん、「この会社で働ける」ということが従業員のモチベーション向上につながるはずです。
「上場基準を満たして上場した」という事実は、社会的信用度にもよい影響を及ぼします。金融機関の審査のハードルも下がり、融資を受けやすくなるでしょう。
また新規開拓を行う際も、上場企業というバックグラウンドが役立ちます。
新規取引先を獲得したりより好条件で契約を結べたりといったメリットが期待できます。
IPOを実現するためには、上場直前2期の会計監査を受けること・上場企業としての体裁を整えた上で1年間の運用を行うことが必須です。
これらの条件をクリアするためには、最低でも3年はかかります。
またIPOの実現については、かかる費用も膨大です。
上場審査料や協力機関に支払う報酬などを全て含めた場合、コストは5,000万円程度見積もっておく必要があります。
株式を市場に公開すれば、誰でも自社株を購入できるようになります。競合他社に株式を大量購入されれば、経営権を奪われるかもしれません。敵対的買収のリスクが常につきまとうのは、上場企業ならではのデメリットです。
株式を公開すれば、自社株を購入した株主に対して責任を負わなければなりません。経営の自由度やスピード感は、非上場時よりも下がります。
企業の経営状況やガバナンス体制は、常に株主の監視下です。気楽な経営は許されず、株主に配慮した経営方針・経営戦略の立案が求められることとなるでしょう。
デュアルトラックプロセスでは、IPO準備と並行してM&Aのアプローチも行います。M&Aのメリットやデメリットについても確認しておきましょう。
M&Aは、IPOのように監査を受けたり経営体制を整えたりする必要がありません。
よい買い手が見つかれば、数カ月でイグジットできるケースもあります。
必要なのは買い手と売り手の合意のみのため、エグジットまでのスピードが早いのは魅力です。
買い手企業の資金や知名度を利用できるのも、M&Aならではのメリットといえます。
相手企業の規模によっては、営業チャネルや販売ルートなどを幅広く活用することも可能です。
相手企業の強みと自社の強みとがうまく合わされば、企業経営の安定・成長が期待できます。
M&Aを実施すれば、キャッシュを獲得できます。
負債の返済に使えるのはもちろん、新しい事業を始めるための資金として活用することが可能です。
IPOの場合は、自社株を売らない限りキャッシュの獲得はできません。すぐに資金が必要な理由がある場合は、M&Aの方が有利です。
日本では、M&Aの売却益がIPOよりも劣るケースが多いといわれます。
M&Aを実施しても、理想のエグジットとはほど遠い…というケースもあるでしょう。
特にバリュエーションを十分に高められないままM&Aを実施すると、買い手からのオファー価格が低くなります。
M&Aは、取引先や消費者から好意的に受け取られない可能性があります。
M&Aの実施によって、取引先や消費者が離れてしまうリスクは小さくありません。
またM&Aの実施に納得できない従業員がいた場合、優秀な社員が離れていくリスクもあります。
M&Aの実施で企業をより発展させていくためには、ステークホルダーへの配慮や従業員の理解が必須です。
デュアルトラックプロセスは、スタートアップのエグジットを優位に進める上で有益です。デュアルトラックプロセスのメリットを見ていきましょう。
IPOとM&Aを同時進行すれば、IPOの評価値を最低値として交渉を行えます。
初めからIPO一択・M&A一択とするよりも、より有利な条件でイグジットを進められるかもしれません。
アメリカではデュアルトラックプロセスを選択することで、IPOの倍以上のバリュエーションが付くケースもあります。
IPOとM&Aを併走することで、買い手候補には「IPO手続きが終わるまで」という検討期間のタイムリミットが設けられます。
「早く決めないとIPOを実施する」という事実が、相手にプレッシャーを与えるでしょう。
買い手候補の中には、交渉を優位に進めるために時間を引き延ばしたり、交渉材料となりそうな情報をそろえてきたりする企業もあります。
「IPO」というタイムリミットを設けておけば、主導権は常に買い手側です。
M&Aが決裂した場合、そのスタートアップについて「何らかのリスク・欠陥があるのでは」というイメージが付く可能性があります。
しかしIPOとM&Aを同時進行しておけば、M&Aが失敗に終わった場合でも企業イメージに傷が付きません。
IPOに成功すれば、企業はほぼノーダメージです。
スタートアップがデュアルトラックプロセスを実施すると、コスト面や運営への負担が大きくなります。どのような点に気を付けるべきかを見ていきましょう。
IPOの準備とM&Aの交渉を同時進行すれば、コスト面の負担が大きくなります。
特に弁護士や専門家などの協力を仰ぐ場合、依頼が長期間にわたるケースも少なくありません。
IPOまたはM&Aのみでイグジットするよりも、多額の準備金が必要です。
IPOもM&Aも、経営トップがあらゆる折衝・交渉に関わる必要があります。
トップにかかる負担は、どうしても負担は大きくなるでしょう。
経営陣と取締役会で、業務の負担方法やIPOとM&Aの進め方について話し合うことが必要です。
デュアルトラックプロセスでは、M&A交渉は経営トップと数人の役員のみで秘密裏に行われるのが一般的です。
情報管理が甘いと、リークによってM&A交渉が台無しになるリスクがあります。
またIPO準備を行う社員は、M&Aが選択肢にあることを知りません。
IPOだと思っていたのにトップがM&Aの準備をしていた…、などと漏れてしまえば、社員の士気が低下します。
デュアルトラックプロセスを実施する際は、情報の管理方法・伝達方法についても取り決めが必要です。
今の日本において、IPOとM&Aを併走し、成功したと発表している企業はほとんどありません。しかし、大規模買収を成立させたスタートアップ企業がいくつかあります。M&Aのイグジットの成功事例を見ていきましょう。
ソラコムは、通信とクラウドを融合したグローバルなIoTプラットフォームを提供する会社です。KDDIはIoTビジネス基盤整備に前向きだったため、両者のM&Aが成立しました。
KDDIグループに入った後も、ソラコムは順調な成長を続けました。
買収時に約8万回線だった契約数は、2020年時点で約200万回線にも上っています。
KDDI×ソラコムのM&Aは、スタートアップが大企業との協働によるシナジー効果を十分に享受できた例といえるでしょう。
通信教育、教室、書籍、模擬試験などで、幅広い教育指導サービスを提供するZ会グループ。
2017年には、「アオイゼミ」を運営する葵社を買収しました。
葵社は、2012年に創業したオンライン学習塾のパイオニアです。
オンライン学習塾について質の高い運営ノウハウを持っており、エドテック部門を強化したいZ会グループにとっては非常に魅力的でした。
M&A実施後も、代表取締役・石井貴基氏はそのまま留任。
Z会グループと種々の共同事業を開発した後退職し、2019年に「千葉道場ファンド」という新たな会社を興しています。
2023年1月、アメリカの大手バイオテクノロジー企業「モデルナ」が、日本の大学発バイオベンチャー「オリシロジェノミクス株式会社」を買収すると発表しました。
買収価格は約8,500万ドル(約113億円)とアナウンスされています。
オリシロ社は、2018年に日本で創業したスタートアップ企業。
無細胞系での長鎖DNAの合成や、複製技術を保有しています。
この技術を使えばワクチン開発の期間を短縮できるなどのメリットがあり、モデルナ社は買収に踏み切ったといわれています。
M&Aに積極的なのが、GAFAMの一角を占めるGoogleです。
M&Aはさまざまありますが、成功事例として特に有名なのが2005年に行われたAndroidとのM&Aです。
Androidは元々デジカメの会社でしたが、M&A後にモバイル用OSの開発・リリースを実施しました。
現在では世界を席巻するOSとなり、Google・Androidともに莫大な利益を享受しています。
アメリカではごく一般的に浸透しているデュアルトラックプロセス。
しかし日本では、M&Aそのものが極端に少ない傾向です。
日本のスタートアップのイグジット戦略について、現状と今後を見ていきましょう。
経済産業省が発表した「大企業×スタートアップのM&Aに関する調査報告書」によると、日本のスタートアップの約7割がイグジットの方法としてIPOを選択していることが分かりました。
これはM&Aが約9割を占めるアメリカとは真逆の現象です。
日本にM&Aが定着しない大きな理由は、「M&Aでは思うほど利益を得られない」ということです。
日本では、IPOに失敗した企業がM&Aを選択するケースが少なくありません。
買い手企業のオファー価格は当然ながら低くなりがちで、大きな利益は得られません。
M&Aについては、「IPOを選択できないときに行うもの」という印象があります。
参考:大企業×スタートアップのM&Aに関する調査報告書|経済産業省
アメリカの場合、大企業の成長戦略にM&Aは必須です。
GAFAMを初めとする多くの企業が、積極的にM&Aを活用しています。
しかし日本の大企業の多くは「自前主義」で、オープンイノベーションの活用に慣れていません。
スタートアップの価値を低く見積もる傾向があり、売り手と買い手のバリュエーション認識にアンマッチが起こっています。
アメリカのようにスタートアップ・大企業双方にメリットがあるM&Aが行われにくく、交渉が決裂するケースが頻発しているのが現状です。
令和5年度の税制改革により、オープンイノベーション促進税の対象に「スタートアップ企業の成長に資するM&Aを行った企業」も含まれるようになりました。
オープンイノベーション促進税制とは、オープンイノベーション要件を満たしたスタートアップ企業の新規発行株式を国内企業が一定額以上取得した場合、取得価額の25%について所得控除が受けられる制度です。
大企業とマッチできるM&Aが増えれば、今後は日本でも、デュアルトラックプロセスを活用したM&Aを選択するスタートアップが増えていくかもしれません。
参考:オープンイノベーション促進税制 (METI/経済産業省)
2021年9月、アメリカの決済大手「PayPal(ペイパル)」が日本のスタートアップ「Paidy(ペイディ)」を3,000億円で買収しました。
このときPaidy社はIPOの準備も同時に進めており、IPO主幹事の証券会社はM&Aについて全く聞かされていなかったのだそうです。
3,000億円という金額は、クロスボーダーが進む国内のM&Aでも最大規模クラス。
Paidyはデュアルトラックプロセスを活用し、大きな利益を生みました。
デュアルトラックプロセスとは、スタートアップのイグジットにおいてM&AとIPOを併走させる手法です。
M&Aの交渉を行う際にIPOの評価値からスタートできるため、M&Aのバリュエーションを高める上で非常に有益といえます。
アメリカのスタートアップにとっては、極めて一般的な手法です。
政府が国を挙げてスタートアップの支援を打ち出している昨今、日本のスタートアップのイグジットでもM&Aが選択されるシーンが増えています。
「イグジットといえばIPO」という固定概念は捨て、デュアルトラックプロセスで有利にM&Aを進めるのも1つの方法です。
画像出典元:o-dan
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