Arithmer株式会社 代表取締役社長兼CEO 大田佳宏氏
学校で習ってきた数学や科学。
その先にある、まだ社会実装されていない最先端の数学、いわゆる「高度数学」を活用すればさまざまな分野でイノベーションの実現ができる、そう信じてAI開発を進めるスタートアップがある。
「数学で社会課題を解決する会社」を掲げるArithmer(アリスマー)だ。
その独自のアルゴリズムを用いてさまざまな事例に対応してきた。
現在特に注力しているのは、浸水予測などに使える流体予測AI、工場火災などの事前検知に用いる予兆保全AI、アパレルECでの事前採寸などに使える自動採寸AIの3つである。
ビジネスのニーズと技術シーズのマッチングに悩むDeeptech企業は少なくないだろうが、両者をマッチングさせ、利益率を上げていくArithmerのプロセスが参考になる企業もあるのではないだろうか。
東京大学から学生や研究者が起業をした事例はすでに500件近くあるそうだ。
産業に近い立ち位置にある工学部出身の起業家はこれまでいたものの、数理科学研究科からの起業家輩出はArithmerが初めての事例だという。
東京大学で特任教授も務める代表取締役社長兼CEO、大田佳宏(おおた・よしひろ)氏にお話を伺った。
ー これまでのキャリアと、起業のきっかけを教えてください。
私は徳島県の鳴門市出身で、東京工業大学工学部を卒業した後、東京大学大学院理学系研究科を修了しています。
IBM東京基礎研究所研究員、日立製作所中央研究所研究員、東京大学先端科学技術研究センター特任助教などを経て、2013年4月、43歳の時に東京大学大学院数理科学研究科の準特任教授に就任しました。
東大には現在も在籍しており、今は非常勤の特任教授となっています。
Arithmerは2016年に起業しました。
起業当時、そのまま教授を続けるという道もありました。
実は東京大学のルールとして、会社の代表取締役をやるには常勤教授ができないというものがありまして、そのため一度非常勤に切り替わっています。
現在は週に一度、授業を受け持つ形です。
数学というのはいろんな分野に応用が可能で、非常に基礎的な学問です。
その力を多くの方に活用いただき、社会課題解決につなげたいという思いがありました。
私は大学院と日立在籍時、数学を使ってゲノム解析をし、新薬開発に携わるといったことをしていたのです。
多くの方にとっては、数学を使って薬を開発するという着想そのものが意外に感じるかと思います。
一方、実態としては、医療業界での数学の活用はすでに一般的で、こういった状況を多くの方に知ってもらえたらという思いがありました。
研究を進めるにつれ、国立大学は国の補助金による研究だけでなく、「産官学連携によって事業売上を立てる流れを求められていること」「製薬会社の方々からも株式会社の形態をとったほうがよいのではないか」とアドバイスをいただいたことなど、外部要因が混ざり合った結果の起業です。
弊社の名前の由来は、算術、数学という意味の “Arithmetic”。
数学は物事の本質を捉える学問であるといわれます。
ガリレオは「世界は数学のことばで書かれている」、アインシュタインは「数学は、経験とは無関係な思考の産物なのに、なぜ物理的実在の対象物に、これほどうまく適合するのか?」と言いました。
我々が開発している高度AIシステムは、単なる業務効率化や自動化だけにはとどまらず、継承が難しい高度な専門技術や、人間の手では実現不可能な技術の実装ができるのです。
その結果として、災害対策や交通事故防止などの安心安全な社会システムの実現、画期的な薬の開発など、人、社会、環境への貢献につながる応用技術をさまざまな業界で生み出すことができると考えています。
ー 起業して特に大変だったことをお伺いできますか。
資金調達や採用にはさほど苦労しなかったのですが、ビジネスモデル上、利益率を改善していくことが最も大きな課題でした。
資金調達は創業した2016年当時、スタートアップにとっては資金調達しやすい環境で、多くの企業から出資をしたいというお声がけをいただいたのです。
現在の市場は、コロナ禍や足元のロシア関連の地政学的なリスクなどで騰落してはいますが、調達はおかげさまで順調で、経営が大きく影響を受けることはありませんでした。
2020年6月にはシリーズBエクステンションラウンドとして、シリコンバレーにあるペガサス・テック・ベンチャーズ等から5億円を調達。
現在は次のラウンドに向けた準備をしています。
利益率については、2019年頃にはAIブームが再燃したことで案件が多く集まりましたが、単発案件をこなしていくような受託開発が多い状況でした。
その時のフロー型モデルから、独自性のある規定サービスを提供するストック型に切り替えて、利益率を改善していくことが必要だったのです。
最近では、自動車や保険などの業界1位の企業をクライアントとする案件を通して、ストック型の収益モデルになるシステムの開発ができました。
それらのシステムを業界の追随事業者に導入していくことで売上を上げる形式、いわゆるトップピン戦略で利益率改善ができてきています。
これは上場に向けて、社外取締役として参画頂いているアスクルの岩田氏のアドバイスによるものです。
ー 組織風土、採用について伺えますか。
前述のAIブームもあり、事業拡大に向けて採用を強化した2019年頃はおかげさまで応募が多く、月100名近くの応募がありました。
どちらかというと、代表として私が最終面接をしたかったというこだわりがあったことから時間繰りがとにかく大変でしたね。
カルチャーフィットは大事にしていますので、きちんとおひとりずつとお話したいと思っています。
現在は採用が落ち着き、新規の募集は絞られてきました。
採用にあたっては、弊社のミッションとその方の入社希望理由がフィットするかを見ています。
ミッションは「数学で社会課題を解決する」というもの。
弊社はAI開発企業なのでエンジニアの採用が中心ですが、昨今のAIブームによりAIエンジニアをやりたいという方の母数は増加しています。
実はこれには2種類の人が存在しているのです。
「既存のライブラリを組み合わせて最適化を進めたい」というタイプと、「より数学的なアプローチから新たにアルゴリズムを開発し、現時点ではまだ存在しないAIエンジンを新たに作りたい」というタイプがいます。
我々は基本的に後者を採用しており、技術としては基礎の構築からできるほうが応用が利くので、C言語やC++などのより計算基盤に近い言語を扱える方が対象です。
そのため、大手のシステム開発会社からのご転職が少なくありません。
この領域は量子力学の理解があるほうが望ましく、実際に弊社でも量子力学や素粒子物理学を専攻していた方や、量子コンピューティングのアルゴリズムを扱うことができる博士号取得者をアメリカやフランスの研究所からお迎えしています。
現在、エンジニアの3割は英語圏の方々です。
社内エンジニア同士のディスカッションも英語なので、私も英語を使うことが少なくありませんが、私自身は海外で暮らしたことなどはありません。
実は、研究者やエンジニアというのは意外と英語が堪能なんです。
学会ではプレゼンも英語、研究のために普段から読んだり書いたりしている論文も英語オンリーという環境で過ごしているので、大学のトップリサーチャー陣はグローバル事業展開向きだと思っています。
ー 採用は既にグローバル、シリコンバレーのVCからも資金調達をされているということで、グローバル展開も進めやすいのではと思いますが、海外進出のご予定はありますか?
海外展開も検討をしつつ、まずは日本発のAI企業として日本の数学人材を集めていくことに注力していきたいと考えています。
というのも、実は欧米ではGAFAM(Google、Amazon、Facebook、Apple、Microsoft)を中心に、数学を事業に応用することが重要視されており、数学人材の採用がいち早く進んでいるのです。
一方、日本企業では数学人材の採用はまだ盛り上がっていない。
そのため日本の優秀な理数系人材は、海外企業に流出してしまっているというのが実態です。
しかし、私はエンタープライズ向けのシステム設計というものは、ハイコンテキストなコミュニケーションや緻密で地道な業務を得意とする日本人に向いていると思うのです。
日本企業が数学人材を活用できるようになれば、日本発のAI活用システム開発企業というのは、グローバルでも競争力を持って台頭できるようになると考えています。
まずはそういった優秀な日本の数学人材に来てもらえるように成長して、その後にグローバル進出を果たし、海外の数学人材にも来ていただけるような企業にしていきたいです。
上記は人材の話でしたが、弊社が展開しているビジネスについても、もちろん海外でも市場が取れると考えています。
特に可能性を感じているものは3つ。
1つめは「予兆保全AI」。
たとえば、画像解析により工場内火災などのインシデントの予兆を検知するというもので、自動車メーカー等を中心に導入いただいています。
中長期的にはスマートファクトリー化につなげられると考えており、発電所等への応用導入も見込めるでしょう。
2つめは「浸水予測AI」。
いわゆる防災テックにあたりまして、災害が起こる前の予測シミュレーションと、災害発生直後の保険金査定もできることから自治体や損保会社に導入いただいています。
3つめは、「サプライチェーンAI」。
物流の最適化をAIでコントロールしようというものです。
日本国内では、ベテランのプロジェクトマネジャーがトラック手配などを職人芸でこなしてきている業界ですが、ベテランスタッフの高齢化により、物流の自動化ニーズは必ずあると考えています。
トラックの移動経路最適化によるコスト削減や、それによるカーボンニュートラルの最適化は、AIの得意分野です。
コロナ禍によるグローバルでの非接触が進んでいることを鑑みれば、人口増加エリアとなる東南アジアやアフリカでは、特に物流が活性化していくことが予想されます。
さらに、サプライチェーンAIは電力業界にも応用ができると思っており、作りすぎた電力の最適配分や有事の際の需給予測も可能です。
事業やサービスが幅広く見えるかもしれませんが、実はこれでもユースケースを絞って進めています。
数学は応用範囲が広いので、課題を目の前に見せられるとついどれにでも深く取り組みたくなるものです。
しかし放っておくと赤字事業も出ますから、まずは上場に向けて選択と集中を進めるフェーズにあると考えています。
ー 学生時代はどのように過ごされましたか。
小学校の頃から算数が大好きで、一方では体力も必要だと思い、競泳をしていました。
競泳では、中学生のころに徳島県で2位までいったほど。
今でも体力づくりのために、週2回は1,000~2,000m程度、泳いでいます。
東京に出てきてからは、学習塾講師や公務員試験のアルバイトをしていました。
今でも、空いている時間は数学か水泳をしています。
数学を学んだらどういう職業に就けるのか、イメージするのは難しいですよね。
私自身、博士課程に進んで教授になることしか考えていなかったんです。
ところが家庭の事情により、修士課程の途中で博士課程に進めなくなることが判明しまして。
就職活動をしなければならなくなったわけですが、就職するつもりがなかったので教員免許も取っていませんでした。
IBM等を慌てて受けて、内定を頂いて就職した形でした。
博士課程にいけないのはとてもショックでしたが、実は大手の研究所であれば働きながらでも博士課程が取れる可能性があるということで、IBMの東京基礎研究所研究員に決めました。
在籍中は、論文を書かせてもらいながら非常に楽しく過ごせました。
IBMということで案件は金融系がメインでしたが、当時、数学の活用分野として最もホットだったのはヒトゲノム計画。
私は生物自体は元々苦手なほうだったのですが、東京大学の情報科学研究科のなかにヒトゲノム関連の研究室があり、数学のなかでは一番応用寄りのものとして業界内では目立っていました。
がんや糖尿病などの疾患の98%はDNA関連といわれ、この分野に数学を生かせば、がんの特効薬が開発できるかもというレベルで業界が盛り上がっていたのです。
数学が人間の生物的課題を解決できるというのは、数学を愛する身からするとものすごく使命感や情熱を感じられるもので、実は今でも細々とバイオ関連の研究を続けています。
Arithmerとしては選択と集中をしているフェーズですが、個人としては遠隔診療、創薬、異種移植への参入といった、いわゆる神の手をAIとロボットで具現化していく世界を、今後も追いかけていきたいのです。
IBM入社後しばらくして、日立製作所中央研究所で数学によるヒトゲノム研究をやっているという情報が耳に入り、そちらに移籍することにしました。
日立でも、IBMに負けないくらい自由にやらせてくれまして、とても感謝しています。
かなり能動的に活動して、自分で作ったプログラムを製薬会社にプレゼンに行くようなこともしました。
日立には7〜8年在籍し、ありがたいことに社内でも高い評価をいただいて、元々は大学教授になりたいと思っていたということを忘れるくらい楽しかったですね。
ー プレシード期からシード期のスタートアップへメッセージをいただけますか。
スタートアップへのメッセージはほかの方も出されていると思いますので、せっかくですしアカデミア出身のスタートアップへ向けたお話をさせていただきます。
研究者というのは元々世界基準の目線を持っていて、常に欧米や中国の研究者と肩を並べて論文を書こうとしているのです。
ゼロからイチをつくりたいという情熱の強い人も多く、実は起業家素質があるように感じていて、アカデミア出身の起業家がもっと出てきてほしいと思っています。
研究者が事業をやる時にネックになるとよくいわれるのは、自分の技術に思い入れがあるからこそシーズドリブンになりがちという点で、ビジネスには即さないのですね。
私が起業時に決めていたのは、ニーズドリブンで事業をするということ。
顧客のいるサービスは、お客様のニーズに合わないと買ってもらえません。
ニーズに合わせてやりたくない仕事をしなければならないと悲観することはなくて、そういったユーザー目線の意見を聞いていくうちに新しいシーズに気づくこともできる。
これは研究者にとっても面白い体験であるはずです。
とはいえ、私自身もこういったビジネスマインドを最初から持ち合わせていたわけではなく、IBMや日立で培われたところがあると思っています。
就職していなかったらビジネスの面白さに気づけなくて、起業をしていなかったかもしれません。
そういう意味ではアカデミアの人も、もっとビジネス畑の人とコミュニケーションをとってみると新しい世界が広がっていくかもしれませんね。
ー 最後に、これから作りたい世界観と、読者へひと言お願いいたします。
2,300年前、古代ギリシャのアルキメデスは、放物線の面積を求めるために積分のもととなる積尽法を編み出しました。
その後ガリレオ・ガリレイが、彼の唱えた積尽法をもとに数々の偉業を成し遂げ、アイザック・ニュートンが微分積分の基礎を整えたのです。
さらにそれらが産業革命時のさまざまな技術開発につながり、蒸気機関車や黒船を作り出しました。
私は、イノベーションとはまさにこういった人類の叡智の積み重ねであると思っています。
現代社会の科学技術は、ほぼ相対性理論と量子力学によって成立しているのですが、このように技術革新の最初のシーズは数学でした。
それを知っていただき、数学を産業に適用させるということが現代でも行われていってほしいと考えています。
数学の面白さはそのものの美しさだけでなく、社会課題を解決する手段になることにもあるのです。
世界のビジネスパーソンはすでに数学の面白さに気づいています。
数学やイノベーションを愛するみなさん、私たちと一緒に、日本を、世界を、変えていきましょう。
Arithmer株式会社
銀行、通信企業での新規事業担当を経て独立。スタートアップのファイナンスやコミュニティの運営に長く携わる。自身でメディア運営をしていることがきっかけでライター活動も行なっている。
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